2008年5月 2日 の出来事 |
地球の裏側の日本 -サンパウロ-
サンパウロのリベルダージ地区には、不思議な空間が広がっていた。
しっとりと降り注ぐ雨が、通りの両脇に並ぶスズランの形をした街灯を濡らし、日本語の文字があふれる町並みに、ウェットな空気を満たしていた。
昨日は夜に到着したのでよくわからなかったが、ここには昭和の日本を感じさせるような何か懐かしい雰囲気があふれていた。

ここサンパウロのリベルダージ地区は、世界最大規模の日本人街といわれている。
日本からブラジルへの移民が開始されたのは今からおよそ100年前。
当時、奴隷制度の廃止に伴い労働者不足にあえいでいたブラジルは、何とかして労働力を確保しようと必死になって移民の受け入れに力を注いでいたのだが、そんな流れの中で、日本政府は1908年にブラジルへの移民をスタートさせたのだった。
以来、日本人移民は、様々な苦難や過酷な労働に苦しみながらも、それらを克服しながら徐々にその数を増やしていき、定住化を進め、この地で子を生み育て、そしてブラジルにおける社会的な地位を築き上げていった。
黒澤明の「羅生門」がヴェネチア映画祭でグランプリを獲った翌年の1953年、サンパウロの中心部に隣接するある地域に、「シネ・ニテロイ」という日本映画専門の映画館が開設された。
時代は日本映画全盛期。この五階建ての白亜の殿堂は、ブラジルに移り住んだ日本人、その子孫である日系ブラジル人たちにとって最大の娯楽施設となり、この界隈に広がっていた平凡な住宅街の風景を一変させた。
シネ・ニテロイの入口にはいつも長蛇の列が並び、その周辺には日系の商店が数多く並ぶようになっていった。
そうして出来上がったのが、このリベルダージの日本人街だった。
今は、中国人たちのパワーに押されて、「東洋人街」とも呼ばれているが、しかし通りにはやはり日本的な雰囲気が満ちあふれ、行き交う人々もその多くが日本人的な顔立ちをしていた。

現在では、ブラジルで生まれブラジル人としてのアイデンティティを持つ2世・3世の日系ブラジル人たちが、日本人移民1世に変わって社会の中心世代となっているそうだ。
サンパウロには実に100万人の日系人が暮らしているが、その勤勉さ教育程度の高さから、政・官・財界の中枢に進出していく人も多く、ブラジル社会の発展に大いに貢献しているという。
ちなみに、逆輸入的にブラジルから日本に来て、日本の中で活躍している日系人の人たちもいる。
例えば、サッカーのセルジオ越後や与那城ジョージは日系2世、闘莉王は日系3世だ。
まあとにかく、日本人の血を受け継いだ人々が色んな場所で大活躍しているという事実は、日本人としてやはり誇らしいことだというのは間違いない。

しかしこのリベルダージ、驚くべきはその町並みや人々の顔つきだけではなかった。
商店に入ると、そこには日本の商品が「これでもか!」ってぐらいに大量にあふれていたのだ。
お店の棚には、日本のカップラーメン、ふりかけ、味噌、醤油、カレーのルーにお菓子、雑誌や本などが大量に並んでいたし、オニギリや焼き魚や焼きソバなど日本的なお惣菜まで置いてあった。
値段も外国にしてはかなり安いので、おそらく輸入品ではなく、ブラジル国内で作っているものも多いのだろう。
もちろん、奮発して色んなものを思う存分買いまくり!
しかし日本から最も離れた地球の裏側ブラジルで、こんなに大量の日本食材を手に入れることができるとはね。いやあ嬉しい!

今日は雨が降ってるので、町散策は軽めに済ませて、宿の中でカレーライスを作ったりしてゆっくりと時間を過ごした。
泊まっているのは「ペンション荒木」という宿。
決してキレイでは無いし、値段も安いわけではないのだが、ロケーションがかなり便利だったし、日本人宿泊客が多くて旅の情報も集まりそうだったので、ここに泊まることに決めたのだった。
ちなみにこのペンション荒木、「世界三大日本人宿のひとつ」と言われているとかいないとかの、なかなか有名で歴史のある宿であります。
うちらは「新々館」と呼ばれている棟に泊まったのだが、その名の割には新々館はそこまで新しい感じもなく、部屋の中に鶴の掛け軸が飾ってあったりして、むしろ田舎の古い家に遊びに行ったときのようなそんな感覚にさせられた。
まあ、それはそれで味があっていいんだけどね。
カレーを食べた後、鶴の掛け軸の上に置かれた意味不明なオブジェを眺めながら、部屋の中でパソコンをやっていたら、同室のドミトリーに泊まっている老人が僕らに話しかけてきた。
老人は85歳という高齢にもかかわらず、メリハリのきいたハッキリとした口調で、サンパウロの思い出話を僕らに色々と聞かせてくれた。
70年近く前に移民としてサンパウロに移り住んできた老人は、この地で青春を送り、この地で生涯のほとんどの時間を過ごしてきたのだそうだ。
この先もずっとサンパウロの地で暮らし続け、この地で骨をうずめる覚悟だという。
なぜこのドミトリーで暮らしているのか、そしてなぜ室内でピシッとスーツを着て紐ネクタイを締めているのかは、ナゾのまたナゾだったが、しかし老人の話は非常に興味深かった。
そして老人の口から語りだされるその言葉の端々には、日本に対する深い愛情、慕情がにじみでているような感じがした。
「平成元年に、政府の恩給で日本に一時帰国しましてねえ・・・」
そんな20年前の話を、昨日のことのように鮮明に語る老人の表情は、とても生き生きとしていて、すごく嬉しそうに見えたのだった。

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